山形のさくらんぼ狩り くだもの狩りは、大将錦開発農園の山形チェリーランド・上山観光フルーツ園へ!

園主が語る農園の生い立ち

正式名称は有限会社上山観光フルーツ園、略して上山フルーツ園と称しています。

 

園主が語る農園の生い立ち、簡単にまとめてみました。長文です。

その1 さくらんぼの木を植える 明治から昭和

私(園主)が物心ついたときには、家のまわりに大きなさくらんぼの木が何本かあった。

他に和梨とりんごなどもだいぶあった。

 

6年生の修学旅行のとき、さくらんぼだけをリュックいっぱいに詰め込んででかけた。

当時もさくらんぼは珍しく、友達といろんなものを物々交換できて楽しい思いをしたこともあった。

 

 

今から約130年もまえに祖父がこの土地に果樹を植えたとのこと。

 

祖父は男ばかりの兄弟の末っ子。

当時は道もない荒れ果てた原野をわけてもらった。

そこを耕してさくらんぼ、リンゴ、梨などを植えはじめたのが最初である。

 

祖父はばったり大工だった。

ばったり大工とは水車などをつくる人のことだ。

 

仕事の合間にくだものを作っていた。

苗木を手に入れることが難しく、リヤカーをひいて二日がかりで町まで苗木を買いに行ったとのこと。

 

当時の農家は桑の木を植えて「おこさま」を飼っていた。

まわりからは「こだなもの植えてなんにんるんだ」とバカにされたとか。

 

栽培技術も確立されておらず、試行錯誤の栽培であっただろう。

その後、同調者もでてきて次々と果樹が植えられていった。

当時は町の八百屋さんが畑ごと安く買い取っていた。

 

くだものといえば一般の人には貴重品。

特に戦争中の食糧難のときには、さまざまな人が物々交換にやってきた。

それだけに泥棒も多く、それには大変なやまされた。

 

 

やがて生産が軌道にのり、果樹組合ができ、市場に出荷するようになる。

 

 

祖父はそんな繁栄をみることなく50半ばでなくなった。

その2 さくらんぼ栽培を本格化する

さくらんぼを三千貫(12トン)とる農家が近所に2軒もあったり、洋ナシを300トンとる日本一の農家があったり、りんごで大儲けして祝賀会を開いたり・・そんな話を子供のころよく聞いた。

 

 

うちでもいろんなくだものを作っていたが規模が小さく、自分の仕事を早めに終わし、小遣い稼ぎに袋かけやさくらんぼの収穫によくいった。

 

 

学校の勉強はほとんどしていない。

校長先生からは進学をすすめられたが、一年でも早くさくらんぼを三千貫とりたかった。

 

 

父は病弱な体で農作業には向いていなかった。

また人前で話しをするのも苦手で、学校を卒業してからは果樹組合の会議などにも私が出席っした。

そこで大人たちの会話から生産のことや様々なことを学んだ。

なにがなんでも三千貫とること。

 

当時、四反歩のさくらんぼ畑はあったが、なぜかほどんど実をつけることがなかった。

 

雨の日も雪の日も林を耕しさくらんぼの木を植えていった。

何度かおおきな台風にみまわれ、そのたびになりだしたばかりの若木が何十本と倒されたりした。

 

 

そして面積は一町歩になる。

栽培技術も年々向上し生産量が増えていった。

 

当時は加工用のナポレオンが中心で価格は年々上昇していた。

 

 

三千貫とれたとき、私は二六歳で大金を手にした。

今から約55年前のことである。

 

しかし直後に暴落する。

のどかな農園の風景 ねことキジ

その3 独自の農業経営をはじめる

私が青年だったころは青年団活動が活発だった。

そのなかに農民大学というものがあり、私は(さくらんぼ大将)というあだ名で学級長を3年務めた。

 

そこで新農業基本法を学ぶ。

それは消費者に安定的に供給するために、農業の集団化・産地形成・流通の一本化などであった。

農業基本法という羅針盤をつけた「日本農業丸」が船出することになる。

 

だが自分はその船には乗らなかった。

自然の上に成り立つ農業とはかけ離れているような気がしてならなかったのだ。

 

「おれはこれから対話の農業でやる。自分で作ったものは自分の力で直接お客さまに売っていく。」と仲間の前で熱弁をふるったが、だれもが半信半疑できいていた。

 

しかしそれは私の体験談でもあった。

自転車の荷台にりんご箱を二つのせ、棒はかりとカゴをくくりつけ町に売りにいっていた。

 

直売のはじまりである。

それは17歳のときだった。

自転車からトラックにかわり遠くまで売りに行けるようになった。

東京までは何度もいった。

固定客もつき多くの贈答用の注文を受けるようになった。

 

しかし当時は輸送は国鉄しかない。

荷物受付の数量制限まであった。

午後7時30分上山発の汽車に荷物を乗せてもらうために、朝の5時に荷物を持ち込み順番をとる。

 

そんな苦労が何年かつづいたが、便利な宅配便が登場すると全国への産地直送は飛躍的にのびた。

 

それは新たな競争のはじまりでもあった。

のどかな農園の風景 リス
昔はリスもよくみかけましたが、最近はもう会えません

その4 観光果樹園のはじまり

自分で作ったものは自分の力で直接お客様に売る

 

そこから観光果樹園を思い立った。

 

当時、観光果樹園はまだなかった。

 

道も狭くそれに奥地、だれも考えらるような状況ではなかった。

市役所に相談に行った。

「なにバカなことを考えているんだ、アタマおかしいんでないの」と門前払い。

33歳のときであった。

 

 

いつの日か観光果樹園ができるようになる

さらなる先を見据え、園地整理や品種導入など、少しずつ準備をはじめた。

生活道路の整備ということで大型車が通れるようになった。

 

観光果樹園がここにできれば、事前調査では年間4,5万人が来ることになる、これはみんなでやろうと果樹農家によびかけたが、冷ややかな反応しかなかったが3人が同調してくれた。

 

事前の営業活動もあり、さくらんぼ狩りの開園と同時に毎日何十台もの観光バスが押し寄せた。

県道からの入り口が狭かったため交通渋滞。それが通学時間と重なり新たな問題となった。

やがてフルーツラインとして新たな道路がさくらんぼ畑を横切ってできた。

同時に設備を大きくし施設名「山形チェリーランド」として新たな出発をする。

 

 

新しい道路沿いには何軒かの観光果樹園ができた。

そのころには山形全体で何百ものさくらんぼ狩りを中心とする観光果樹園が存在するようになっていた。

 

 

お客様の奪い合い、価格競争など激しい競争の時代にはいったのだ。

さくらんぼに囲まれる園主の画像若い時

 

 

ここまでお読みいただいたあなたさま・・ご愛読どうもありがとうございました。

 

ここまでスクロールだけしたあなたさま、さくらんぼ狩りの特典ゲットの合言葉、ここ掲載予定はありません。